Sacred Evil 6






 はあはあと肩で荒い息を繰り返しながら、キラは後ろ手でばたりと教会の扉を閉めた。

 アスランにばれたら街を出て行こうと決意して、だから来る前に食事も終えてきたのに。
 結局、そんなことは全くの無意味になってしまった。


 アスランに抱かれて上がった熱は、他の男じゃ満たせない。
 

 食事の光景を、アスランに見られたのはつい先ほど。
 喉元から血を飲み干していた時点で逃げてきたから、まだ肉は何も食べることができなかったけれど、今はそんなことはどうでもよくて。
 もともと空腹を満たす為に求めた食事ではない、アスランに高められた熱がほんの少しでも中和されればいいと、そう思って求めた男だから。

 なのに、精をどれだけ呑み干しても、血をどれだけ吸い取っても。

 体は只、アスランとの違和を訴えるばかりで。


 それでも情交の為に多少昂ぶられていた熱が、アスランの視線に晒されて爆発した。

 アスランに見られたと分かった瞬間、もうだめだ、と思ったのは本当のこと。

 アスランにバンパイアだとばれてしまった、人ではないと知られてしまった。

 もうそばに居られない、と。確かに奈落の底に突き落とされるような絶望を感じたけれど。

 哀しいことに、それはたった一瞬で終わってしまって。


 次にキラの体の奥深くから、アスランに牙を突き立てたいと、押し倒してその精を与えられ、そしてその肉を喰らいたいと。

 抗い難いほどの欲望が頭をもたげて、視界の中にアスランが長く留まれば留まるほど、アスランが長くキラを見つめているほど、膨れ上がるその思いは防ぎ様が無くて。


 最後の理性で、空に飛び上がった。

 
 
 ようやく会えたアスランを殺すことだけは、喰らうことだけはしたくなかった。

 だからそのまま街を出るつもりだったのに、どうしてだろう。


 もう一度自分の欲望を抑える自信があるわけでもない。

 戻ってきたアスランにつまみ出されても、口汚く罵られても構わないから。

 もう一度だけ、会いたかったのかもしれない。


 弁明しようとは思わない。

 けれど、抱いてくれた礼が言いたかった。


 三百年以上の間、待ち続けてきたたった一人の人だから。



 キラは目の前の祭壇に跪くと、おもむろに十字架に向かって十字を切った。

 ジャンヌ=ダルクと呼ばれていたころは、毎日欠かさず行った祈り。

 神を恨んでバンパイアと成り下がってからは、朽ちた教会を見つけようとも、決して近づこうともしなかったのに。


 アスラン一人で覆される、自分の心境が可笑しくてたまらない。


 もう一度アスランに会わせてくれた。
 確かに神はキラを見捨てたけれど、こうして願いを叶えてくれた。
 だから、自分ももう一度だけ、願ってみてもいいと思う。


 頭を垂らして、忘れられない聖書の一節を口ずさむ。そして。


「罪深き私の為に天に召された迷い子達に、どうか救いの手があらんことを」


「罪深き私の為に運命を狂わされた者達に、どうか救いの手があらんことを」

 
 例えそれがバンパイアの力の所為だったとしても、確かに昨夜、アスランは自分を愛してくれた。

 まるで、遠い昔。
 故郷ドムレミ村で、優しかったアスランに愛されたあの時のように。


「罪深き私に愛された気高き僧侶アスラン・ザラに、どうか神の祝福を」


 それはキラがアスランの為にできる、唯一のこと。

 ゆっくりと紡がれたその声の最後が、礼拝堂にささやかに響いた後。
 背を向けていても分かる、確かな気配をキラは敏感に感じ取って。

 けれど振り向くより先に、もう一人の人物の声が届いた。


「祝福を祝われるのなら、神なんかよりキラがいい」


 いつのまに教会へ戻ってきていたのだろう。
 穏やかに、けれど力強く届いた声に自然キラの頬を涙が伝う。


 振り向いた先に立っていたのは、真っ直ぐにこちらを見つめてくる、アスラン。


「…やっぱり、ここにいた」


 ステンドグラスから注がれる橙の光を全身に浴びながら、アスランは綺麗に微笑んだ。
 

「なら、どうして……」


 一歩一歩アスランが近づいてくるたびに、直ぐにでもあとずされるようにキラの腰が高く持ち上がる。
 けれど、後ろに控えているのは神の祭壇ばかりで。
 此処は狭い、教会でしかなくて。


「俺が見つけなかったら、おまえは街を出て行くだろ?」


 それは、確信にも似た問いかけ。
 二人のほかに音を奏でるもののない空間が、必要以上に神経を過敏にさせる。

 彼の言葉が、突き刺さる。


 アスランには何も言っていない。

 けれど彼は、先ほどの光景で。
 一体何をどれだけ悟ってしまったのだろう。


「僕が誰だか分かったんでしょ…?? なら、どうして近づいちゃだめだって分からないの……?!」


 アスランとの距離が縮むたびに、竦み上がる躯がある。

 遠ざからなければならないと警鐘を鳴らす理性と、喰わんが為に近づこうとする本能と―――

 
 相反するそれを持て余して、ただキラは全身を小刻みに震わせ、そしていやいやと首を振る。
 動けない自分の代わりにどうか来ないで、と。
 アスランに哀願して涙を流す。


「キラが何を恐がっているのか、もう全部分かってるから。だから、心配しなくていい」


 無防備に笑い、腕を広げて微笑むアスランは何処までも優しい。
 その唇から紡がれる言葉は酷く甘くて、本来ならできもしないはずの、見せ掛けのキラの虚勢を剥いでいく。

 アスランを喰らいたくない為に、必死で築き上げた祈りの膜を、アスランが剥がして本性を誘う。


「俺を、喰いたいんだろう……??」


 まるでキラの欲しいものを尋ねる、駄々を聞いてあげるようなそんな口調で。

 視線をアスランに固定されたまま動かせずに、ただ固まっていたキラの躯を歓喜で打ち震わせて。


 だめだだめだと呟くキラの最後の砦を、アスランは自分から崩そうとする。


 その先に待っているものを、アスランが知らないはずは無いのに。


 アスランがキラに喰われようとしている。

 その現実が、キラには信じられなかった。

 どうして、と。
 尋ねてみても今更仕方ない。
 どこをどうすれば、先ほどの光景を見たアスランがそんな思考に辿り着くのか分からないけれど。

 一つ考えられる理由があるとすれば、自分は。


 そのバンパイアの人を惹き付ける力で、アスランまでもを力付くで虜にしてしまったのだろうか。


 アスランにだけは、人間に見られたかった。

 いつか不可能になるだろうと分かっていたけれど、最初の数瞬だけでいいから。

 昔に戻ったみたいに、人間同士になって愛し合いたかったのに。


 狂信的にキラを信じて、そして欲に濡れたその瞳で喰ってくれと纏わり縋る。
 それは彼らを食さねばならないキラにしてみればありがたい力だったけれど、言い換えればその都度自らが人ではないのだと、思い知らされるようなもので。


 抱かれて相手を喰らわなかったのは、昨夜のアスランが初めてだ。

 だから、神の御慈悲でアスランだけは特別なのかと、漠然とそう思っていたのに。

 実はキラ自身が意識して力を抑え、欲を解放しなかった、その結果であるだけなのかもしれない。


 だって、正気のままのアスランなら。

 喰われたい、なんて。
 きっとそんなこと言わない。
 

「君だけは、絶対に食べたりなんかしない………!!」


 頬を涙と血と汗でべたべたにしながら、嗚咽を漏らすようにキラは叫んだ。

 アスランにもう一度会いたい。
 その願いの為だけに此処まで生きてきたのだ。

 決して、アスランを食べてしまいたいからアスランを望んでいたわけじゃない。


 人間と吸血鬼の、愛の表現の決定的な差異だったものが。

 どれだけキラが心を人間に保ったまま生を重ねてきたのだとしても。

 キラの躯の奥底では、とっくに一つになって交じり合ってしまっている。


 アスランに愛されたいと願う。
 それはすなわちアスランに、その身をキラの前に投げ出して欲しいと願うこと。

 アスランを愛したいと願う。
 それはすなわちアスランの血や肉を、キラの血や肉として共に生き続けたいと願うこと。


 もう、その二つに明確な違いなんて無いのに。


 キラだけはそんなこと、認めたりなんかしないから。

 自らの中の悪鬼の血に逆らう為にも、アスランだけは食さないと、意固地に首を振り続けて。

 やがて何かを思いついたように、壮絶な笑みを作り上げてアスランを見つめた。


「君が僕を蔑むようなこと、教えてあげるよ」


「何……?!」

 歪められた真っ赤な唇にほんの少したじろぐ。
 か弱い人間の性とも言うべきアスランの些細な動揺に、キラは満足そうに笑みを深めて。


「君が止めたがっていた今回の反乱、原因は全部僕だから」


 一瞬の迷いも無く言い切る。

 この無用な過ぎた力を、忌んでいた時期も確かにあった。
 けれどどれだけ自分を嫌悪しても、力が収まることなど、無くて。

 馬鹿みたいにキラの所為で死んでしまった人々への弔いの涙も、「慣れ」の名の出現と共に消えてしまった。

 今は只、僅かな自嘲が残るばかりで。

 
 死んでしまおうと、男を襲わなくなった時期だってあった。


 それでも結局生き延びてしまうのは、浅ましいバンパイアの生の執着か、それともキラ自身のアスランへの思慕ゆえか。


 自らの存在理由としてきた彼の、命を自分で奪うくらいなら。

 残酷極まりない地獄の悪魔を、素で演じて見せても悪くないと思える。


 告げた言葉は確かに動揺を齎したようで、アスランの綺麗な翡翠が見開かれる。


「僕は伝説そのままのバンパイアなんかじゃない。長く一所に留まればそれだけ周りの人を凶暴化させるし、反対に十字架には何も恐怖を感じない」


 それはきっと元聖女の力なのだろうけれど、それを付け加えることに意味は感じなかった。


「生きるためだけに人を殺す、可愛いバンパイアじゃないんだ」


 此処からは、己を蔑む泣きたくなるような言葉たち。

 それでも、その言葉で彼が正気を取り戻すのなら。


「僕は其処に生きているだけで人を殺すんだ、悪魔なんだよっっ!!!」


 はっと、アスランが息を呑む音が聞こえて。
 しめた、と。密かな達成感が心を支配する。

 ちくりと存在を主張した小さな痛みから、敢えて視線を反らして。
 あともう一息と、キラは更に息を吸い込んだ。


 漂う血の匂いこそ、自分には一番相応しい。


「今日一日で僕がどれだけ人を殺したか教えてあげようか?? とりあえずこの街の人は全員城の前で、こっちも僕の所為で凶暴化した兵士に銃殺されたでしょ。あと兵士の方も、市民の人たちに結構な数が殺されたと思うよ。僕が手を下したのは精気と血をもらったあの男一人だけなのに…その他に何百人も死んでるんだ、僕というバンパイアが、昨日の夜にこっそりこの街に入り込んだ、たったそれだけなのに」


 それは確かな事実。

 けれど言葉にして突きつけるには余りに、惨い。

 真実キラ自身の所為であることに否定のしようが無いから、まるで自分がその罪を突きつけられているみたいで、アスランに向かって叫んでいるのに、どうしても声が震えてしまいそうで。

 悟られないように早口でまくし立てた。
 決して吊り上げた唇を歪めてしまわないように、精一杯力を込めて。


「ほら、僕なんかに殺されるなんて馬鹿だよ、ね、だから――」


 自分が何をまくし立てているのか分からなくなりそうなほど、お願いだから背を向けて欲しいと、そればかりを眼前の翡翠に願って。

 これまで硬直しきっていた翡翠からふっと力が抜けて。
 途端動き出した周りの時間の中で、アスランが自嘲的な笑みを浮かべて。


 動く、と。そう感じた。


 次の瞬間には、突きつけられる拒絶を、覚悟したのに。


「ばかきら……っっ!!」


 知らず知らず強く瞼を閉じていたらしい。

 予期していなかった衝撃と、至近距離から降らされる音に全身が震えて。

 抱いてしまった予感が信じられなくて、否定しようと目を開けば。



 其処には、昔でさえも見たことの無いような綺麗な泣き顔で、それでも微笑むアスランがいた。


 何時の間に最後の距離をゼロにされたのか、三百年以上も求めてきた腕は、確かに自分を包んでいて。


「……!!」



 言葉にならずにただ開閉を繰り返すキラの唇に、アスランのそれが落とされる。







 差し入れられた舌の感触に、何かが弾ける音がした。














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