Sacred Evil 5






 辺りに響き渡る怒号がようやく、アスランを眠りから引き戻した。



「え……」




 都の中でも城に程近いこの教会は、既に市民の絶叫や銃声で埋め尽くされていて。

 一気に覚醒してベッドを蹴る。部屋に広がる日光の余りの明るさに、思いがけず深く寝入っていたことを知らされた。



「くそ……っっ」


 昨晩、全身は不思議なほど酷い疲労に包まれていて。キラの願いを聞き届けて一人ベッドに入った後、考えたいことはいろいろあったはずなのに程なくして眠ってしまった。

 反乱が始まって、もうどれくらい経ったのだろう。

 簡単に着衣を整えて勢い良く外に出る。隣室に繋がる扉を断りも無しに開くと、けれど。もうとっくに冷たくなったベッドと、整えられた布団の類が乗せてある、だけで。


「キラ………!!?」

 いない。
 反乱だけでも頭を抱えたくなるほどの一大事なのに、それに加えて。
 アスランは考えを纏めるより早く踵を返して、礼拝堂を潜り抜け、そして。

 ガタリと開いた外への扉の向こうに広がる、光景に。
 一瞬、キラの事すら脳裏から吹き飛ばすほどに驚いた。

「………!!」

 思わず口元にあてた掌の下で、くぐもった音が漏れる。其処には、教会の前を通って真っ直ぐに城へと向かう、無数の市民達が歩いていた。彼らを城へ入れまいとして、城前で交戦しているのだろう近衛兵が放つ銃撃の音が、何度も鼓膜をつんざくけれど、そんなことは気にはならなくて。

 昨夜、教会へ今日の反乱を告げに来た男にも同じ事を思った。

 まるで、一人一人がぜんまい仕掛けの人形のように。



 ぶつぶつと何事かを呟きながら、真っ赤に血走った瞳を見開いて。迷い無く城へと行進している。
 手にはそれぞれの斧や鉈などの武器を取って。女も、子供も老人すらも関係なく。


「どう、して……!!」


 辺りを見回しても正気を保っている人は見つけられず。飢えに苦しむ市民が兵士に敵うはずが無いことくらい分かりきっていたからこそ、これまで見送られた反乱の烽火が。急に今日になって上げられた理由が、やっと混乱を極めた頭で分かった。


 昨日から、あの男衆を始めとしてとっくに狂っていたのだ、皆。


 何の為にこうなってしまったのか、どうすれば止められるのか。何一つ分かっていないけれど、確かなのは、不思議とアスランだけは平静にこの惨状を見つめているという事実だけで。

市民だけで無く兵士にもこの混乱が伝わっているとすれば、両者の交戦場はおよそ反乱には似つかわしくないほど凄まじい地獄と化しているに違いない。


 何をすべきか、なんて一つも分からなくて。


 背負ってきたはずの十字架も、今は烽火に呑まれるばかりでアスランに何も示しはしない。


「役立たずが……!!」


 口走った罵声は、誰に向けての物だったか。

 ようやく戻ってきた理性に、最初に浮かんだのは、やはり。


「キラ……!!」


 姿の見えない愛しい人。まさか他の市民のように正気を失っているなどと思いたくは無いが、昨日この街に来たばかりだと言っていた。どこかでこの光景を見て、そして怯えているかもしれない。


 探さなくては。


 規則正しく歩行を続ける市民はまるで川のようで、しかも止め処なく切れ目がない。危険の増す城の方へは行って無いだろうと適当にアタリをつけて、アスランは周囲を見渡し、日に浴びてきらきらと輝いているだろう鳶色の髪を目印にしようと思いながら、人波をぐいぐいと強引に逆走していった。



 どれだけの時間が経っただろう。いつまで行っても人波は終わりを見せず、使う労力の割に進みの遅い足はだんだんと重くなり、未だすっきりと晴れない不可解な疲労を全身に伝えてくる。
 どこだ、何処へ行った。

 キラ、キラ、と。アスラン自身も壊れた時計のようにキラの名ばかりを叫ぶ。昨夜、何度も感じた悪い予感。けれど今アスランに、そんなものとは比にもならない、確信めいて最悪の事態へのカウントダウンが、回っているような気さえして。


 早く、早くと気ばかりが急かす。その中を泳ぐように突き進んで、そして漸く。

 今アスランがいるところより前方右、かなり先の方の路地の入口に、見間違えるはずも無い、キラだと確信できる後姿が。あった。


彼女は、傍らの誰か…彼女が知らないはずの、長い黒髪の男に数言話し掛けて。

違和無く列を離れた男と連れ立って、人気の全く無い、その路地へと消えて行った。


キラ、と叫ぶ。


アスランの声に振り向きもしないで。


 陽に照らされて、光ったその男の髪の色が。

 ほんの少し淡やいで、まるで宵の空のようにキラを隠した。


 伸ばした手は、あまりに遠く。



 それからキラが姿を消した路地へと辿り着くのに、人込みを掻き分けていたら雄に数刻もの時が経ってしまった。もう疲れなど微塵も気にならず、連れ添っていた男が何者なのかが気になって他の人の進み行く足に気を払えずに、何度もつまずいては転びかけた。

 アスランが息を切らしながら路地の入口に手を付いてようやく一つ息を吐き出す頃には。やっと長蛇の人の列もほぼ大方が城へと向かってしまって終わりを告げ、無人となった街は静寂を取り戻しつつあった。

 誰一人として戻ってこないその結果を、今は考えるべきではない。


 より一層激しくなる、吐き気さえ催すほどの嫌な感覚を振り解いて。


 一歩踏み入れた路地には、本当に血の匂いがするような気がした。


 できるだけ音をたてないようにして歩く、その意図はアスランですら分からなくて。

 進んだ先の突き当たり。其処を更に右に折れたところに。

 勘ではない、不確かな確信が。

 アスランに、キラは其処だと告げていた。


 一歩一歩地面を踏みしめているはずが、どこか宙に浮いているような感覚を覚える。

 なかなか突き当たりが近づいてこないような、そんな錯覚までもがアスランを襲って。

 その度に振り払うように首を大きく振る。そうして辿り着いた小さな二択の道筋。右に折れようと首を巡らし、その前に耳にピチャピチャと水音が届く。


 何の音なのか、考えている余裕は無かった。


 振り向いてしまった、その視界に映されたものは。


「キラ―――……!!!」


 口元を覆う間も無く立ち込める血の匂い。

 錯覚ではなかったのかと、数時前の思考を思い出している余裕は無くて。


 行き止まりにもたれかかって四肢を投げ出している男は、確かに先ほどキラと連れ立っていた黒髪の男。

 彼もキラもほとんど衣服を纏っていなくて、けれど二人の裸体のほとんどを、ぐっしょりと濡れて固まりかけた長い髪と、凝固の始まりかけている男の物と思わしき赤黒い血が隠していた。

 確かに見え隠れする、男とキラの結合部に。

 艶かしく光るキラの腰と、真白の背を伝い行く紅い血のコントラストが、とても綺麗で。

 息を呑んでずるりと後ずさる、その音が大きく響き渡った。


 第一声にキラは気付いていなかったのか。一心に男の首筋に唇を当て、そして其処から絶え間無く水音を立ててはごくごくと喉を鳴らしていたキラは、そこまできてやっと、人の気配に唇を男から離した。



「キラ……!!」


 振り向いた瞳が交差して、もう一度アスランが名を紡ぐ。



「ア………っっ!!」


 たった一つの音だけを奏でる合間に、キラの美しい紫紺の瞳は、これ以上無いほどに見開かれて。


 錯乱したように首を振る。辺りに舞う滑らかなはずの髪からは、ぼとぼとと血の塊が飛び落ちて。



「いや……!!」


 昨夜何度も口付けを交わした、その愛らしいほころびはこびりついた血でねっとりと濡れていた。



 それでもアスランが動けなかったのは、あまりにその光景が、美しくて。


 ぴくりとも動かない男の中で、完璧な躯のラインを隠しもしないで狂ったようにいやいやと首を振る。

 そのキラに、アスランがそっと一歩近づいた瞬間。


 ずるりと男を中から抜き出したキラは、そのまま躯が萎えた様子も見せずに、アスランを避けるように足と腰に力を込めた。

 腕を伸ばしたアスランのほんのすこし先で、人ならざる者であることを見せ付けるかのように高く飛び上がったキラは、そのまま向かいの建物の屋根に舞い降りて。

 行き場を無くしたアスランの腕が彷徨い、反射的にアスランが上を見上げた時には。



 もう其処には、何の姿も見えなかった。




 それは、悪夢の一言で片付けるには、あまりに強烈で。

 幻想に過ぎないと眼を背けることは、眼前に残された憐れな男の残骸が許してくれなくて。


「キラ………」


 何も掴めずに下ろされた腕と共に落ちた、言葉一つ。

 
 その声音に未だ恋情が篭っていることを、誰が認めてくれるだろうか。




 反射的にアスランは地面を蹴って、キラを追おうと体を反転させた。

 けれど何処へ行けば良いのかなんて、さっぱり分からなくて。

 闇雲に走ればいいのだけれど、背後にキラが残したものに気を惹かれて。

 ふっと全身から力を抜いて、もう一度その男と対峙した。


 てっきり死んでいるとばかり思っていたその男は、よくよく見てみると微かに息をしていて。喉に大きく開けられた風穴ゆえに、唇から漏れ出てくるのは甲高い空気の音ばかりだけれど。

 半端に伸ばされた腕と、キラに抱かれていたのだろう下肢と。そして辺りに飛翔している生臭い血と精気の匂いに、アスランはぐっと拳を握り締めた。

 彼が完全な死を手に入れるのは、もう時間の問題だった。

 彼は残された力を振り絞って腕を持ち上げ、必至に瞳孔を巡らせて何かを探している。

 アスランの存在など気にも掛けない彼が求めているものなど、聞くまでも無かった。


 最期の最期まで、キラの腕の中で死んでいきたかったのだろう。

 一度キラを抱いたことがあるアスランになら分かる。彼女の腕は男の理性を狂わせ、そして、男に何の躊躇も無く本能を暴き出させてしまう力がある。


 
「バンパイア、か………」


 子供騙しに大人が語り継ぐ、色褪せることの無いフェアリーテイル。バンパイアもその中で、人の生き血を啜る為に夜な夜な現れる怪人として酷く恐ろしく描かれているものだ。

 もしキラが、アスランが知っているようなバンパイアの特性を兼ね備えているのなら。



 彼女は日光や十字架に弱く、そして年を取らず老いを知らない。


 確かにアスランの前に現れたのは夜であったし、教会という聖なる場所ではあったけれど、暗くて十字架が良く見えなかったのか、それともキラは十字架に耐性でもあるのかもしれない。

 キラは最初からアスランのことを良く知っているような口ぶりで、とても嬉しそうに話し掛けてきたから。

 自分が彼女のことを何も知らないことが、本当にとても申し訳なくて。


 けれどそれも、全てキラがバンパイアだからこそ為せることかもしれないのだ。

 バンパイアは一瞬で、その姿を見る者を惹き付ける。


 キラを組み敷いて名を聞いたときから、何かの箍が外れたようにキラが欲しくてたまらない。

 それは自分とキラが愛し合っているからで、そして彼女の愛すべき美点なのだと思ってきたが、そもそも。その考えこそが、キラがバンパイアだからこそ植え付けることができたものかもしれない。
 


 彼女は男を狂わせる。




 おそらく何百年もそうして男を誑かし続け、その血と肉と精を喰らい、若さを保って生き続けてきたのだろう。この男も、数多の犠牲者の一人にすぎないに違いない。

 最期の瞬間まで生にしがみついてキラを求める、眼前の男の眼差しに胸がむしゃくしゃする。

 彼は不運だった。けれど、キラに最高の快楽を与えてもらって、そしてその血はキラの中で生き続けるのだ。


 幸せなことじゃないか、と。思ってしまう自分が何処かにいる。


 どうしてか泣いてしまいそうで、アスランは血の匂いの染み付いた法衣で、目元をぐいと拭った。


 分かってしまった。キラがどうして、昨夜別室で寝ることを望んできたのか。

 これはバンパイアの力に侵されたからでも、増して自惚れでも予想でもない。

 事実として、キラは俺をその意志で喰らわなかった。




 アスランの脳裏に、謎を謎のままで通り過ぎてきた昨日からの些細な食い違いが、次から次へと現れ出でてはその符号を埋めていく。

 
 キラは、アスランを知っていたのではない。

 昔の、例えば前世か何かの。

 前の、『アスラン=ザラ』を知っていたのだろう。きっと、とても深く。


 昨夜キラを抱いた時に感じた、相手も同等の思いを返してくれているからこそ得られるあの満ち足りた快楽。それさえも作り出された幻影だったなんて、とても信じられなかった。

 キラはアスランを特別に思ってくれている。

 昨夜別室に眠り、キラ自ら欲望を抑えようとしてくれた、今こうしてアスランが生きて男を見下ろしている、それこそが何よりの証拠だった。

 
「アスラン」は他の男とは違う。何故なら、それは『アスラン=ザラ』をキラに与えることができるから。


 確信を持って言える。「アスラン」は、この世界で唯一キラが、喰らいたくないと感じる男。


 最初の「アスラン」が如何いう男だったかなんて、アスランは知らない。

 そして、喉元に風穴を開けられてまでその女を求めるような、激しい執着と快楽もアスランは知らない。


 キラはその力に抑制をかけたままアスランに抱かれた。

 それが、アスランが知ってしまった二つ目の事実。


 おそらくは、弾みでアスランを喰らってしまわないように。

 そして、キラがバンパイアであることをアスランに悟られない為に……




「あの、ばか………!!」



 つい口を付いて出たのは、今はもう姿を消した、亜麻色の髪を優雅にそよがす彼女への言葉。
 

 なんて半端な道しか選べない女だろうと思う。

 一番好いている人と最高の快楽を分け合うことも出来ず。

 そして、唯一の願いを叶えれば最愛の人は永遠に失われてしまうなんて。


 アスラン自身、どうしたいのか明確には分からなかった。


 それでも、一つ。

 自分がいなくなっても、きっと『代わり』は現れる。

 既に自分が、そうであると知ってしまったから。


 今度こそ、暫く前に息絶えていた男に背を向けて。アスランは勢いよく走り出した。


 何時の間にか咆哮は止んで、都には静寂が戻っている。

 急流を遡るような人波を潜り抜けた時はだいぶ太陽が高かった覚えがあるのに、もう今ははるか地平線に沈もうとしている。真っ赤に染まった空に何故か、彼女の紫玉を思い出して。

 誰一人として人の気配のしない街を走り抜けて、アスランは目的の場所に辿り着いた。


 はやく、はやくキラに会わなければ。

 そればかりがアスランを急かして鼓動を支配する。


 アスランがキラの正体を知ってしまった今、もしかすると。

 キラがアスランの傍を離れていってしまうような、そんな気がアスランにはしていた。


 他にキラの居場所など無いと、知っているのはアスランだけなのに。



 ぎいと軋むような音を立てて、開かれたのは大きな扉。


 中に広がるのは見慣れた礼拝堂と、その向こうの十字架の祭壇。

 闇が支配しつつある中に、そっと眼を凝らせば。


 十字架の前に恭しく跪く、一人の少女の姿が見えた。





 それはまるで、語り継がれる聖女のように。



  煌々と、照らし出されていた。











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