怠惰と惰性と性欲と
8.「寂しがり屋で、甘えたで我儘だ」
| 「ねえ、アスラン」 キラが漸く口を開いたのは、交互にシャワーを浴びて、いつもの日常に戻って熱い紅茶を一口飲んだ時だった。ダイニングに向かい合って座って、時刻はもうとっくに夕餉時だと教えていたけれど、二人ともそのような気持にはなれなくて。只無言で居た。そこに落ちたのは、静かな、けれど確かに甘えを含んだキラの言葉だった。 「僕、考えたんだけど」 「ああ」 アスランは頷いた。そうしてカップから口を離すと、ゆっくりと其れをテーブルに戻す。 「きみがいつも近くに居るから、僕は満足しちゃうんだと思う」 音は、ダイニングに木霊した。最近使われた形跡の無いシンクに響き、冷蔵庫に反射し、コンロに吸い込まれた。けれどアスランは、動かなかった。 「きみと一緒に暮らすことときみと付き合う事は、すごく密接に繋がっていると思う。それと僕の性欲を直結させることは間違っているかもしれないけれど、僕にとっては、そういうことなんだ」 キラは再度落とした。俯いてしまった為に言葉はテーブルに飲み込まれたけれど、アスランに届いたことは疑いようのない事実だった。音の一つ一つは震えたり掠れたりしていたけれど、大きさは充分だったし、何よりその瞬間、アスランの肩が小さく揺れた。 「じゃあ、これまでは。…俺が頼むから、俺がおまえを欲しいから、…仕方なくおまえは俺に従ってくれていたのか。…嫌々、体を開いてたって言うのか…?」 逆に、アスランから発されたのは弱々しい限りの言葉だった。ダイニングの小さな二人用のテーブルに向きあっていなければ、キラに届かなかっただろう。冷蔵庫もシンクも、何の反応も示さない。 「厭じゃないよ。嫌いじゃないから。でも、欲しいわけでもなかった」 キラからの返事は素早かった。それが、予め考えられていた言葉なのだとアスランに教える。つまりは、キラの真意なのだと。 「だから、考えたんだ。僕もきみを、きみみたいに欲しがりたいと思った。いつもみたいに流されるだけじゃなくて、僕がすごくすごく、きみに抱かれたいと思いたかった。だから、あんなことを言ったんだ」 「…そして、何が分かったんだ?」 アスランは酷く、暗い顔をしていた。これが別れ話でないことは双方が了解していた。だれも、互いを嫌いになってなどいないし、これ以上は付き合えない明確な理由があるわけでもない。だがしかし、今直面しているのはそれに相応するような変化だった。 キラが既に解決策を見つけてしまったことにアスランは気付いていた。後はそれを了承するしか、残された道は無い。 「きみが隣に居たんでは、だめだってこと」 「寂しいのが、嫌いだからか?」 「…たぶん、ね。僕は昔も今も、変わらないんでしょう?」 「そうだな。寂しがり屋で、甘えたで我儘だ」 ひどい、とキラは薄く笑った。そうしてカップを持ち上げて唇を寄せ、中の紅茶を飲みほす。足らなかったのか、僅か腕を伸ばしてテーブルの上のポットを持ち上げた。カチャリと金属音だけを響かせて、二杯目を注ぎ入れる。聞くまでも無く、アスランのカップにはまだ半分以上が残っていた。 「寂しさと性欲が、可笑しいくらいに比例するみたい。きみは、気付いてた?」 「…愚問、だな。繁忙期後の、楽しみの半分は其処に在った」 「本当に、ひどいよきみは。早く教えてくれれば、寂しいって泣かないで我慢したのに」 「泣いてる時点で我慢してるだろ。なんとか仕事前倒しして帰った時のキラの顔は、いつも『したい』って書いてあった」 「…うそ」 「嘘じゃない」 「じゃあ…僕がしようとしてることは、間違いじゃない、かな」 「……」 キラは暫し黙った。結論は決まっているのだがなかなか言い出せないのか、何度か深呼吸を繰り返し、唇を開いては閉じる。 「…このままじゃ、だめなのか?」 その隙をついて、アスランが尋ねた。それが不意打ちだったのか、キラは少しばかり驚きで目を見開き、アスランにゆっくりと焦点を合わせる。 「このままだったら、僕がきみを、あまり好きじゃないみたいになる」 きみばっかりが僕を欲しがるだけだ、と、キラは続けて小さく呟いた。それに、アスランが大きく首を横に振る。 「それでも、おまえは俺を好きだろ? 性欲が湧くことと好き嫌いは別だって言ったじゃないか。おまえが俺を好きなら、俺はそれでいい」 「…僕が良くない」 「キラ」 「僕だって、きみをちゃんときみと同じくらい好きなんだってことを、しっかりと示したいよ」 「だからそれは…」 「ともかく、僕は決めたんだ、今のままでは嫌だ」 「……どうするって言うんだ」 どれだけ反対しても、今のままで良いのだと言葉を尽くしても、キラが応じないことはアスランには分かっていた。やりたいようにやらせてみるしかない。それでも、物理的に離れていこうとするキラを黙って見ているわけにはいかない。 しかし結局は、受け入れることしかアスランにはできない。おとなしくその立場をアスランが受け入れるのは、キラにとっての自分が、揺るぎない場所に在るのだと信じているから。自分が、何が起きたとしてもキラを想う自信があるのと同じように。 何しろ自分達は、物心着いた時から隣に居たのだから。 「別々に暮らそう、アスラン」 それでも言いきったキラの顔を、アスランは直視できなかった。 *―* 言い出したら早いのは昔からで、決めたら揺るがないことはアスランもうんざりするほど知っていた。翌日の金曜日はイザークとの約束通り揃って出勤したものの、その夜、出張の間の残業をアスランが片付けている間に、キラは一人で物件を決めてきた。 翌日の土曜日には二人でその部屋を見に行った。今住んでいるマンションからは、駅一つ分だけ会社に近い処に在るその部屋を、キラはいたく気に入っていた。 大学を出て社会人になる時に同時に実家を出たものだから、当然のように其処から二人暮しを始めて。キラにとっては初めての一人暮らしを、本人はとても楽しみにしているようだった。勿論それはアスランにも言えることなのだけれど、せっかく二人用にと広めに借りているマンションに、一人残される一人暮らしに気持ちが浮つくはずもない。 洗濯機は此処、冷蔵庫は此処、と空想で家具を配置して期待を膨らませるキラの笑顔が作り物には見えなくて、アスランは溜息を吐くしかできなかった。それでも冷静に考えればキラの言いたいことも分かるし、一人暮らしが社会勉強にならないとも言い切れない。 それでも気乗りしないのは、単純に寂しいからだ。就業時間以外の殆どを共に暮らしている存在が、生活空間を異にするというのは、想像しただけでアスランには耐えがたかった。 朝起きる時も、出勤する時も。帰るその瞬間も、寝る時も。当然のように隣に居る存在が、居なくなるのだと言う。その喪失はどれほどになるか、想像だけでは足らないだろうそれを、考えたくは無かった。けれどその状態を、キラは望んでいるのだ。キラの言い分を語るならばおそらく、「近くに居過ぎなんだよ僕たち」ということになるのだろう。性欲の為に付き合っているわけじゃないだろう、と何度叫びたかったか知れないが、アスランは一言だって言わなかった。何が理由だろうと、キラはこの別居生活が、互いの最善の形になると信じている。 けれども黙って送り出すことは到底できそうになくてキラに問い質せば、まだしっかり決めてないけど、たぶん週末はそっちにいるんじゃないかな。と酷く曖昧な答えしか得ることはできなかった。平日は5日で週末は2日しかないんだぞ、と再度尋ねたくなったけれど、キラのきょとんとした顔を見たら何も聞けなくなってしまった。 その間にも日付はくるくると回って、キラの引っ越し準備をしていたら年が明けた。大掃除だからといつになく気合いを入れて空に近くなった自分の部屋を掃除するキラを直視できなくて、おざなりに水回りの掃除をしてアスランは済ませた。仕事が始まれば開発部の部長であるアスランは、オフィスではなく工場や研究所での仕事が増えてきて出勤時間も重ならない。これは例年通りに新型開発の時期に入ったから仕方のないことなのだけれど、毎年なら帰りが遅いアスランの為にキラが夕食を作って待つのだが、正月のどたばたに任せて引っ越しを終えてしまっていたから、それも無くなった。アスランは開発部の部下達と食事をして帰る事が増え、キラがどのような食生活を送っているのかを知ることはなくなった。 わざわざ逐一メールをするのも憚られて、用事が無ければ連絡を取らなくなった。 キラが、キラ自身が寂しくなるのを待っていることをアスランは充分に分かっていたから、はやくその寂しさが限界を超えれば良いのにと、そう思いながら日々を過ごした。 そうすれば、キラから戻って来てくれるだろうと。 不思議な事にアスランは、寂しいと思えば思うほど、性欲の方は減退していくようだった。無論キラを抱きしめたいと思うし押し倒したいと思うのだが、それ以上に会いたくて堪らなくなる。抱かれてくれなくていいから、せめて偶に食事くらいして帰らないかと思うのだが、断られたらと思うと無闇に誘う事も出来ない。 キラの新しいマンションの場所を知っているだけに、仕事帰りに一つ早い駅で降りようとする自らの足を堪える事に、日増しに労力を使うようになっていった。 引っ越す前は週末になったらと言っていた癖に、まだ寂しくないのか限界を待っているのかは知らないが、連絡も無ければ姿を現すことも無くなった。一人暮らしになって最初の週末を二日とも一人切りで部屋で過ごしたアスランは、その次の週末から、部屋に居る事を止めた。人ごみが嫌いな自分を承知していて、ショッピングモールや映画館に出かけて行った。もしキラが来て自分が居なければ、モバイルに連絡が来るだろうと思っていた。 そうこうして、一月が経った。 |
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09.01.11 up