怠惰と惰性と性欲と 



9.酷く、不器用なやり方





その日は、穏やかな日曜日だった。
2月ともなれば底冷えの極寒を想像するものだが、その日だけはどうしてか違っていた。
前日の土曜日は僅かに風が少ない程度で、午前中会議で出勤したアスランは、ほんの少し過ごしやすい陽気に、窮屈なコートの一番上のボタンを、外して朝の電車に乗ったのだ。
会議には無論キラも出勤していたが、お互いに軽く視線を合わせただけだった。会話をすれば、それが不毛な終着点に行きつくことがなんとなく分かっていて、それを会社で繰り広げたくは無かった。なんとなく元気が無さそうにも見えたが、もう一週間の仕事がやっと終わる土曜の朝だ。仕方が無いことだと言えなくも無かった。
ともかく会議の本題は、漸く完成にこぎつけた、アスランが率いる商品開発部のニューモデルに関することだった。これまでも何度も会議を重ね、商品の出来に関しては異論の余地は既に無い。サイズや扱いやすさ、カラーリングなどについて何度も議論を重ね、消費者である病院や研究者が扱いやすいように、かといって最先端の専門性や速さを兼ね揃え、限られた病院内のスペースで場所を取らない極力の小型設計。
基本的に血液などの液体の採取、分析、サンプリングに秀でた会社らしく、今年の新型機は点滴、というどの病院でも使われている基本的な器具に注視したものになっていた。
後は、初回の生産個数と正式な販売定価、最初の営業先を決める事。つまり完成後の雑事が残っていたのだ。アスランは最初に製品の概略を説明しただけで御役御免となり、期待値の高い営業先についてキラが意見を求められていた。
けれどもその受け答えについても特に不安や不審な点は見られず、来月の年度末決算の前には、少しでも営業を始め、実績を上げる事を至上命題として会議は終了した。
その後キラは営業部内での会議が控えているようで、慌ただしく資料を纏めて退席してしまったから、結局一言も話せてはいない。会議が終わった後、社長のイザークが何かを言いたそうな眼をしてアスランを睨んでいたが、アスランは気付かないふりをして荷物を纏めた。
イザークが、自分の出張の件で一肌脱いでくれたことはキラから聞かされた。その結果、またしても今のような現状に陥っていることについて何時までも申し開きをしないものだから、そろそろ雷が落ちる頃合いだろうか。前はキラに話が行ったのだから、今度は来るとしたらアスランの番だろうと思えた。
開発のアスランと、営業のキラと。社長のイザークに、経理のディアッカ、人事のニコル。この五人は、偶然大学の医学部で同じゼミに入っていた面子だった。学年は揃って同じというわけではないが、同時期に同じゼミ室で顔を突き合わせていた仲だ。別の友達たちが次々と医者になっていくのを傍らで見ながら、ずるずると最後の一線を決めきれないでいたのが、当時先輩だったイザークとディアッカで。そんな彼らを見て、キラが何気なく呟いた一言をきっかけに、学生ながらベンチャー会社を創設することになったのだ。人数が足らないと言う事で掻き集められて、最初はこの五人で試行錯誤しながらやってきた。だからなんとなく、ディアッカが副社長のような立場を兼ねているが日ごろから気にすることは特にない。只程なくしてばれたアスランとキラの関係に、三人は軽蔑するでなくいろいろとおせっかいを焼いてくれるのだ。おそらくはただ単に、からかわれているだけなのだろうが。
アスランは、ベランダに向かう大きな窓にそっと指を這わせた。
外に出れば流石に上着なしでは寒いのだろうが、室内から見る限り外は小春日和と言っていいぽかぽかとした陽気だ。絶好の行楽日和とあっては、繁華街やショッピングモールはものすごく混んでいるだろう。もしかしたら、2月だというのに汗をかいてしまうかもしれない。そう考えれば、此処最近は週末を外で過ごしていたというのに、なんとなく出掛けるのが億劫になってしまった。その代りというか、ぼんやりと思考を巡らせている。
そう言えばキラがこの部屋から出て行ってすぐの時は、只キラの言う事が本心から理解できなかったり、自分が勝手に寂しかったりという理由で上手く考える事が出来なかった。考えてしまえばそのまま勢いで、キラのマンションに怒鳴り込みに行きそうな自分が居た。
「帰って来い」と。そう引き戻したのでは、結局キラの意思が置き去りになってしまう。
1ヶ月が何事も無く過ぎて、漸くアスランは、自分とキラの関係を少しだけ、客観的に見る事が出来るようになっていた。物心着いた頃から、何時でもどんな時でも隣にはキラが居た。それは酷く安心することで、同時に当然の光景になっていた。
だからアスランは、別々に暮らす、と言い切ったキラの心情を、本心で理解することができなかったのだ。自分達は、お互いにすぐ隣に居るからこそ互い同士で居られるのだとずっとずっと思っていた。離れてしまっては、自分達は自分達でいられなくなってしまう。ずっと隣に居て何もかもを知っているからこそ、自分は安心してキラを引き寄せられるし、キラの隣に居られるのだと思っていた。
だからアスランにとっては、隣に、せめて近くに居る事が何より大切な事で。それが「好き」の証明だった。好きだから、隣に居る。之以上簡潔な図式も無いと信じていた。
けれどもキラは、それを覆した。アスランを好きな気持ちに変わりはないと、キラは明言した。それなのに、近い場所から離れていくという。寧ろ好きだから、もっと好きになるために離れるのだという。その心情が、アスランには分からなかった。
否、今でも分からない。
只、近くに居なくなったから、アスランの気持ちは変色したかというと、一概にそうとは言えなかった。「好き」という気持ちは難しい。ぼんやりと、アスランはそう思った。そのベクトルが自分はキラに向いている。それだけは断言できたが、そのベクトルの中には様々な思惑が入り乱れている。「隣に居たい」というこれまで通りの気持ち。其れに加えて、「抱きたい」という即物的な気持ち。その割合や混合比率が人それぞれ違うことくらいは、アスランにも理解できる。その比率が、自分とキラとで異なることも。だからアスランは、キラのベクトルもまた、自分に向いていることを疑ってはいない。すぐ隣にいるわけでもないし、毎日会話をしているわけでもない。此処最近のキラについては知らないことが山ほどあるというのに、キラの気持ちだけは疑う事を知らない自分が居る。
不思議だった。
隣に居なければ、不安で不安で仕方が無いと思ったのに。寂しくて、どうにかなってしまうのではないかと思ったのに。
今は穏やかに、キラを好きだと思う。
けれども同時に会いたいと切望するし、こんな何も用事の無い日曜日など、足が向かうまま、キラのマンションに行ってしまおうかとも思う。
けれどもそれは、やはりつまらないプライドが邪魔をするのだ。
別々に暮らすのだと行ってしまったのはキラなのだから、キラから戻って来てくれないだろうか、と思う。キラが自分の限界を待ち詫びているのなら、それを見届けてやろうと思ってしまう。

けれど、とふと考えなおす。発端になった些細なきっかけは、キラが不思議な宣言をしたからだった。あんなことを言い出したから、キラは自分の「好き」と「性欲」について大真面目に考え込むようになってしまったのだ。そうしてキラは自分勝手に、アスランの出張先に乗り込んできた。待ちに待って待ちくたびれてとっくに限界を迎えていたアスランに、キラは思いの丈を吐露して見せたのだ。
酷く、不器用なやり方だったけれど。

アスランはそれが、内心で嬉しくて嬉しくて仕方が無かった。キラが体を投げ出してくれたことも当然だけれど、それだけではない。我慢比べに勝ったからでは無く、プライドが護られたからでは無く。普段互いの「好き」に甘えてしまって見ていなかった部分を、垣間見たような気がしたからだ。
聞きたくなかったと、最初は思った。キラが本当は乗り気でなかったなんて。言わないでくれたらよかったのにと恨んでしまったりもした。けれど、キラにとっては大切なことなのだ。当然だ。キラだって、キラの基準で満たされる、ベクトルが命じるままの恋愛をしたいのだろうから。寂しくて仕方が無くて燃え上ってしまったキラを抱くことは、普段よりも数倍甘美な時間をアスランに齎した。それは、キラの自覚に伴う自覚的な振る舞いにも助長されて、引きずられるのを止める事など出来るはずも無かった。確かにそれは規則的な普段のやり取りでは生まれない興奮だが、それでもそれはアスランにとって稀なスパイスだとしか考えられない。
定期的な、詰まらないかもしれない普段のそれこそが、何気ない日常を寄り添って暮らしている何よりの証拠であり、今隣にキラが居るということを確認できる最高の手段だった。だからアスランは、毎週決まって体を重ねる事を、何も不満には思わない。

だから。そういう詳しい、些細な心の動きについて、自分達は何も語ってはこなかったから。自分勝手に、相手も同じ気持ちなのだろうと思ってしまったのだ。キラも同じ気持ちで居てくれるだろうと信じていたから、別の暮らしをするのだと言われた時に、これ以上ない裏切りを犯された心地になった。
けれど、違うのだ。キラは、日常的な互いの存在を証明するために、体を重ねる事を必要として居ないのだ。漸く、分かった。只、傍らにあればそれでいいのだろう。性欲というものが個人個人で特徴的な繋がりを有しているのだと考えれば、分からなくはない理屈だ。
寂しくないと興奮できないキラは、只その状況に、自分を置きに行ったに過ぎない。アスランを欲しがる事が「好き」の証明になるのだと、そんなことを言っていた。

違う。寂しくないと言えば嘘になるけれど、アスランは欲しがられるよりも、キラに傍に居て欲しい。

ずっとずっと隣に居たのに、こんなに大切な事を、アスランはキラに伝えていなかった。
お互いの違いをしっかり理解して、最善の道を選択すること。共に歩む上で最も大切な事を、自分達はずっと怠っていた。誰よりも相手の事を知っているから、理解しきっていると傲慢にも信じていたのだ。

今から行こうか、とアスランは再度考えた。
キラは我儘とも言える態度で、一人特急線に乗ってやってきたのだ。今度はアスランが、理不尽に振舞っても許されるのではないか。

そう思い至って、窓から漸く指先を離す。アスランの熱で暖まったガラスは、僅かに其の痕跡を浮かべていた。
…この部屋は、一人で過ごすには広すぎる。けれど、二人で暮らすには狭すぎるのもしれない、と思った。人にはそれぞれ、プライベートとも呼べないような、僅かな心の機微がある。其れは時に、自分でも説明することができないほどに、繊細で。キラにとっては、きっと狭すぎたのだろうと思う。端的に言えば、の話だけれど。
最後の躊躇が抜けないままくるりと窓に背を向けると、テーブルの上に置きっぱなしにしておいたモバイルに、何らかの着信を示す赤いランプが灯っていた。日曜日なのだから仕事の用事では無いだろうと、不審に思って引き寄せられ、慣れた動作で其れを開く。

一瞬、信じられなくて、思考が止まる。1件のメールの送り先は、見知り過ぎた、けれど同時に酷く懐かしい名前を表示していた。
「キラ・ヤマト」と簡潔に表された送り主に、自然と指先が震える。たった今彼の事を考えていたのだと、彼が知っているはずも無いのに。


    『僕たちが積み重ねてきた日々は、僕たちの
    命綱なんかじゃないよね。

    僕にはまだ、きみの知らないところがたく
    さんあるんだ』



一度目を通した瞬間、アスランは自分の足から力が抜けるのを感じた。情けなく、フローリングに座り込んでしまう。
『命綱』なんて、どうしてこんなに的確な表現が思いついたのだろう。
そうだ。少なくともアスランは、10何年もキラと共に在ることに少なからず安心していたし、それを理由にしていた。

甘えていたのだ。
命綱なんて、それこそが保険みたいなものだ。キラとの関係は、保険ではない。そんな、万一の為の保守的な考えで共に居るのではない。

誰でもない。アスラン自身が、キラと共に在りたいのだ。

行こう。アスランは決めた。足早に寝室に飛び込み、適当な上着を掴む。
自分勝手でも構わない。誰でもないアスラン自身が、今キラに会いたいと思ったのだから。

「キラ」
 
メールを読み返して、一言。最近の不慣れから少しだけ舌に馴染まないその名前を、呟く。
この言葉を口にするのに、これまで躊躇ったことなど無い。

僅か躓くようにして飛び出した言葉に、アスランの口元に笑みが広がる。
どきどきと鼓動が早まる。
緊張している。





――ああ俺は、恋をしているのだ。







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09.01.11 up