怠惰と惰性と性欲と 



5.「代わりの効かん雑事だ」





出張先までは、特急線や地元の在来線を乗り継いで3時間弱の距離だ。月曜の昼から現地入りする手はずになっているらしく、アスランは今日の朝、いつもより少し早いくらいの時間に、前日には既に出来上がっていたいつもより格段に大きい荷物を軽々と抱えて、そして土曜日にキラが選んだばかりのネクタイを締めて、部屋を出て行った。
キラも併せて少し早く起きて、いってらっしゃいと見送った。それにアスランはいつも通りにいってきます、と穏やかに微笑んでくれて。
その笑顔に安心するのと同時に、その穏やかさに、全てを拒絶されたような気がした。

寂しい、と零すことも。少しだけ、玄関で唇を合わせることも。全てを遮るように、アスランは微笑んでいたように見えた。

出張前に、気が散るから厭ったのだろうか。それとも、そういった僅かなスキンシップすら、キラが求めないと駄目なのだろうか。
少し遅れて、いつも通りの満員電車に揺られて辟易しながら、キラはぼんやりと考えていた。
いつもなら、アスランがなんとかしてキラが潰れてしまわないように、さりげなく庇ってくれる。けれどそれだって365日いつでもというわけじゃないし、出社時間が諸事情で違う時もある。だからキラがそうされるのは、一種の甘えやスキンシップに似たもので。アスランが居なくたってキラは要領よく電車の中でポジションを確保できるし、まして潰れたり酸欠になったりすることもない。
思考の合間にふと、傍らに日常の存在が居ないことに気付いて、キラは疲れ切ったサラリーマンのいつもの月曜日のように、ふうと溜息を一つ零した。

結局あの日から一ヶ月。触れ合わせたのは、指先だけだったのだと。
つい怠け心でいつもより一本遅い電車に乗って、少しだけ足早に会社のエントランスを抜けて。エレベータに乗りこんで息を付いた瞬間、そうか、と全身の力が抜けた。



 *―*



アスランが帰ってこないと分かっている部屋に、どうしてか足は向かなかった。
其処が正当な自分の部屋である事は充分に承知している。だが、一人で料理をする気は起きなかったし、それを一人で食べる気はもっと起きなかった。かと言って誰か、例えばイザークやディアッカと一緒に夕食を摂る気にもなれず、ついだらだらと就業規則ぎりぎりまで残業をして、帰り道に24時間営業のファミリーレストランで、遅い夕食を無理矢理に押し込んだ。そうして、仕方なしに部屋に帰る頃には、もう日付を回ってしまうのではないかというくらい遅い時間になっていて。モバイルを取り出せば、今日の仕事が終わったのかアスランから何通かメールが来ている。
それは実に他愛のない、しっかり食べているかだとか、仕事の調子はどうだだとか、キラの調子を気遣う言葉ばかりで。そうして決まって最後に、まだ戻れる日付は分からないのだと、アスランに責は全くないのに、申し訳なさそうに添えられていた。
キラはそれらのメールを一読すると、ぱたりとモバイルを閉じた。そして軽く、頭を振る。今返信したら、アスランに、知られてしまうと分かっていた。どれだけ取り繕っても、アスランに嘘をつくことは難しい。其れは特に、体調の面でそうだ。些細な言葉の言い回しから、不思議なくらい正確に、アスランはキラの体調や心理状態を分かってしまう。
それは、どこかで分かって欲しいと、キラが思ってしまうからなのかもしれない。

スーツを脱いで、軽くシャワーを浴びる。翌日の仕事の内容を必死になって思い出して、スケジュールを思い描く。そうして同時に、今日何をしたか、何を食べたのかを出来るだけ詳細に言葉にしてみる。その中からアスランに言えないと思われる言葉達は、シャンプーと共に下水溝へと流してしまう。
シャワー室から出て、タオルで全身を拭き終わる頃には、アスランに宛てる文面が出来上がる。
今度の週末に公開される映画の話、食べた物の話、そして最後に仕事の話をして、文末に「おやすみなさい」と入れる。決して、早く帰ってきてね、とは入れない。それは、キラが只待っているだけでは、ないからだ。アスランと同じ職場で、共に同じものを見ているから。自分の部署の尻拭いをさせた格好になってしまっている人を、急かしたり焚きつけたりはできない。
考えた文章をそのまま打ち込んで、迷うことなくモバイルを閉じる。髪を乾かさないと、と思うのだが思うだけで到底洗面所に戻る気になれず、そのままベッドに倒れこむ。二人でいつも眠るベッドの、いつもアスランが居る位置を、空ける。不自然に空間が出来た其処に背を向けて、キラは体を丸めて布団を引き上げた。

どうして、言えなかったのだろう。日曜日に、きっとアスランは待ってくれていた。疲れて面倒で惰性なのかもしれないけれど、それでも出張はきっとアスランも寂しいと、思ってくれているはずだから、自分と同じように。その勢いに流されて、アスランにほんの少し、いつものように甘えて見せれば済んだ話だ。
しなかったことを悔やんでももうどうしようもない。
現にキラは今だって、体が疼いたりはしないし、足らなくて自分で自分を慰めたりもしない。
ただぽっかりと穴が開いたようで、寂しい。
アスランが本当に自分を好きでいてくれているのか。これまで何の疑いも無く無条件に信じていたものが崩れてしまったようで、酷く心もとなかった。
月曜日の朝、ちゃんと笑えていただろうか。そればかりが、気になる。



 *―*



木曜日。始業時間。
自分のデスクに腰かけて、本日の予定を確認する。電話しなければならない取引先もあるし、出向く予定の新規顧客もある。手帳とメールボックスを交互に見ながら機械的にタイムスケジュールを組んでいたら、いきなり背後で声がした。
「そんな予定では今日も昼は抜きか?」
驚いて、反射的に顔を上げる。
「イザーク…」
声で主は知れたけれど、その顔が意外なほどに仏頂面をしていて、キラは少し怯んだ。けれどどこを思い返してもミスをした覚えはなくて、突然の理不尽さにいったい何なのだと、少しばかり苛つく。
「何? 僕には問題ないんだけど」
「別に、俺は食生活にまでとやかく言うつもりはない。だが、ちょっと来い」
「それは、社長命令? 僕これからアポがあるんだけど」
「代理を向かわせろ。代わりの効かん雑事だ」
言うだけ言って、イザークはキラに背を向けた。着いて来いと言わんばかりの態度で、奥の社長室兼応接室に消えていく。
何だそれ、と思う。彼の態度がいつものことであるのは充分承知しているけれど、それでも時と場所と場合によっては苛つくこともある。今回などその典型だ。キラは今、虫の居所が悪いのだ。その理由だって、イザークなら当然分かっているはずなのに。

ばたりと聊か強く扉を閉めれば、イザークの形の良い眉が僅か、鋭利に釣り上った。
「なに?」
仕事の事だけを考えていたいのに、どうしてこんな、タイミングが悪いのだろう。苛々を隠しもしない態度で、乱暴にソファに身を沈める。
「その態度では、取れる仕事も取れんな」
「これは君用だよ。分かっているんでしょ」
取引の場と、比べるなんてどうかしている。もっと丁寧な言葉遣いも、柔らかな物腰も当然だ。キラは営業。商品を売るために、仕事をしているのだから。
「嬉しくないな。だいたい、最近のお前たちの行動は目にあまる」
「たちって、どういうこと」
「おまえが、アスラン以外と括られることがあるか?」
「それこそ心外だけど、聞いてみただけ」
「…まったく」
勝手にそう言って息を吐いて、イザークは一人で沈黙を作る。早く喋れと、キラは視線だけでイザークを急かした。
「その眼つき、アスランにしてやれ」
「どうしてそんなこと」
「必要だからだ」
「意味が分からない」
喧嘩をしたって、キラが拗ねるかアスランがすぐに折れるかで、これまで大々的な喧嘩や口論に発展したことは無い。だからキラの記憶の限りでは、こんな挑発するような視線を、アスランに向けた覚えは無かった。拗ねるか泣くか、どちらかだったように思う。今だって別に、アスランに怒っているわけじゃない。
「言いたいことを、言えと言っているんだ。全く、揃って馬鹿だと話にならんな。問題が黙って解決するなら、喧嘩も戦争も必要ない」
「殴り合えって言うの?」
「必要ならな」
「待って。僕とアスランは、喧嘩なんてしてない」
「だから余計に、性質が悪い」
これ以上、イザークと話をしても時間を浪費するだけだ、と思う。イザークが自分とアスランの事を考えてくれるのはありがたいと思うのだけれど、キラにとっては、間が悪い以外の何ものでもなかった。せめて、アスランが出張から帰ってきてからにして欲しい。
「まあいい。あいつに会えば分かるだろ。俺からすればお前たちは、揃って臆病者の大馬鹿者だ。何年の腐れ縁だか知らんが、それは命綱じゃない」
「命綱? 何言って…」
「社長命令だ。お前は今から半休を取れ。そうしてあいつを、迎えに行ってこい」
「迎え? だってアスランはまだ…」
「終わっていないと思うのか? もう4日目だぞ」
「けど…」
「なにかしらつまらん理由があるんだろう。そんなことで、出張期間を伸ばせるほど甘くは無い。今から連れて帰って来て、明日は揃って出勤して来い。いいな」
イザークの言葉に、逆らう事が出来なかった。それは彼のおもちゃみたいな肩書の所為では無く、キラが言い返すだけの理論を持っていなかったからだ。

そして、会いたいのは本当だったから。
「…わかった」
「よし」
キラが首肯したのに満足したのか、話は終わりだとばかりにイザークは立ち上がった。
「なら、早く行け」
「でも、仕事…」
「特急線でメールはやれるな。電話とアポは俺が代わってやる」
「え…」
「営業部長の代わりが務まるヤツなど、限られてる」
「ありがとぅ…」
「礼はいらん。明日聞く」
「わかった」
キラは立ち上がると、少しばかりイザークに頭を下げる。
そうして退室すると、パソコンと、サイフとモバイル。今朝出社したままの鞄を自らのデスクで拾い上げて、キラはホワイトボードの自分の欄に、『半休』と大書きした。


そうだ。キラは、待っているだけでは無いのだ。
そもそもいつもいつも受け取るだけで、そんな関係に飽き飽きしてしまったから、自分から言い出したことなのに。

マンネリどうこう言いだすなら、自分こそ。
変わる勇気を、持たねばならなかった。










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08.12.24 up