怠惰と惰性と性欲と 



4.「ただ、アスランだなーって思っただけ」





美術展は、文句なしに面白かった。
扱っていたのは、所謂美術の教科書に載っているような古典的な権威ある画家の個展などでは無くて、最近の、まだ作家が生きているようなモダンアートの複合展示会で。何人かの作家の作品を一つのテーマを基に並べるといった趣向の、ちょっと変わった展覧会だった。
行ったのは土曜日だけれど、まだ会期の途中だからかそんなに混んでいるわけじゃなかった。それに、偶然ちらしを見つけてインスピレーションで行きたい、と思ったからこそキラはとても楽しみにしていたが、規模から言っても作家の知名度から言っても、電車の中吊り広告やCMを流したりするくらい大々的に宣伝されたりすることもない。だからか、会場は本当にその作品を好きな人たちが集まっていて、みんな熱心に作品を鑑賞していた。
キラは最初その雰囲気に戸惑ったけれど、たまにはこういう、普段とは全然違う空気に入るのもいいかな、とすぐに思いなおして。どうだろうと傍らを見上げたら、どうやら同じ事を思ったみたいで、少し笑いながら頷かれた。なので二人は、作品一つ一つにああだこうだ言うようなミーハーなことはせずに、静かにゆっくりと鑑賞していった。
幸い展示してある作品数もそんなに多いわけでは無かったから、一時間と少し、キラは美術の世界にしっかりと浸かる事が出来た。その様子を何気なく眺めながら、アスランも。たまにキラの指先を自分のそれで掠めたりすると、思い出した頃にやり返される。そんな些細な悪戯を仕掛けながら、それでも並ぶ数々の作品はやっぱりとても興味深かったり、圧倒されたりするもので。誘われて付いて来たにしては、とても楽しく時間を過ごした。


「おもしろかったね、あぁ来て良かった」
かたりとカップをソーサーに戻して、キラは満足そうに言った。
美術展を出る頃には流石に緊張しすぎで疲れてしまったから、ちょっと休憩しようかと近くのカフェに入って、二人してコーヒーを頼んだ。持って来られたそれはキラには多少苦かったけれど、なんだかいつものように、砂糖を入れる気にはならなかった。
甘いコーヒーは高ぶった神経を和らげてくれそうで、せっかく休もうとアスランが言ってくれているのだし、そうするべきかとも思ったのだけれど。ちょっと苦いコーヒーは、いつまでも芸術の感動を薄れずキラに思い出させてくれそうで、もう少し、このままの気分を味わいたかった。
「そうだな」
アスランも相槌を打つ。その表情から、それが付き合いや世辞の類で無い事が窺える。
『進歩』をテーマにした今回の展美術展は、こんなにも、と驚くくらい多彩な作品が並べられていた。思わず買ってしまった図録をキラが早速袋から取り出すのを見て、アスランが僅かに目を細める。
「僕も来るまではちょっとおもしろそうなテーマだな、くらいにしか思ってなかったんだけどさ。言葉って捉えようだね。『進歩』だったら、過去でも未来でも、人間でもロボットでも全部当てはまるんだもん」
「そうだな」
また同じ相槌を返したのも、本心からそう思っているからだった。
キラは興奮冷めやらぬのか、特に気に入った幾つかの作品のページを開いては、熱心に解説を読んでいる。その度に「へぇ」とか、「なるほど」とか。言葉にするなよ、と突っ込みたくなるような単語がひっきりなしに飛び出した。
それに笑みを細めて、アスランは再度コーヒーを飲む。別に小腹が空いているわけでもないし、食事は此の後の予定次第かな、と考えた。
「キラ、コーヒーさめるぞ」
暗に、図録は買ったんだからいつでも見られるだろうと言うと、キラは案外素直に頷いてそれを袋に戻した。そうして再度、カップを傾ける。
「てか、これくらいのが飲みやすいし」
いつものやり取りだと軽く流せば、キラもそのつもりなのだろう、特に言及も無かった。幾許かして、アスランのカップは空になる。

「なんか、アスランおもしろかった」
唐突に、思ってもない言葉に驚いて顔を上げる。そうすると、キラはとても楽しそうに、にこりと微笑んだ。
「展示会そのものが変わってたからさ、作品の説明が纏めてパンフレットにしてあったじゃない。読みたければ読めばいいし、説明が無い方がいいなら、そのまま作品だけを見ればいいって感じでさ」
確かに、普段行くような大型の展示会には無いシステムだった。来場者の絶対数が少ないから、無料のパンフレットなどという凝ったことが出来るのだろう。
軽く頷いて先を促せば、キラはより、笑みを深める。
「僕はまず作品!って感じでパンフレットなんて全然見なかったんだけどさ。図録買ったから、次は読んで見てもいいかなーって思うけど。でもアスランは、作品の前に立つ前に絶対パンフレット全部読み終わってたよね」
「、ああ」
別に、変わったことをしているつもりはない。
「どういうつもりで『進歩』を扱っているのか、作家の気持ちが分かった方がおもしろいと思ったんだが」
思ったことをそのまま口に出してみたら、キラは本当に楽しそうに少しだけ声を上げた。
そうしてコーヒーを飲んだら、キラのカップも空になる。
「別に良いとか悪いとかじゃないよ。ただ、アスランだなーって思っただけ」
「そう、か」
言われた言葉がどうしてか少し嬉しかったから、アスランは懸命に、ポーカーフェイスを繕わなければならなかった。けれどキラは全てお見通し、みたいな顔をして、笑みを深めてアスランを見つめている。

「この後、どうする」
仕方ないから、アスランから話題を変えた。居た堪れないし、もうコーヒーは空になってしまった。
「あーそうだねぇ」
腕時計をちらりと見やりながら、キラは表情から笑みを消した。けれど、楽しそうな雰囲気はそのままだ。
アスランも自分の腕時計に目を遣る。午後二時を少し過ぎた辺りだ。昼食の時間だが、遅い朝食を摂って出てきたからそこまで空腹は感じていない。食べるなら食べる。といったところだ。
「ごはんには早いし、買い物でもする? 映画もいいけど、ちょっと目が疲れちゃったし。アスラン出張に要るものとかないの?」
出張、と言われてアスランの心臓は少しだけ跳ねた。別に何かやましいことがあるわけでもない。只、明後日から暫くキラと居られないという、その想像がまだ出来ていなかった。
一週間とは言わないまでも、どちらかが数日何処かに出掛ける。ということはこれまでにも何度かあった。それは今回みたいな仕事の用事であったり、プライベートであったりした。けれどそれは大抵、一度か二度のセックスの我慢を暗に含んでいて。傍に居られなくて寂しいと同時に、いつものリズムが僅か、狂うことを意味していた。
今回は、そんなことはない。どんなに長くかかっても来週の週末には戻れるだろうから、いつもと違って、体の方は変わりない。だからこそ、この出張をどう捉えたらよいのかアスランには甚だ分からなかった。
今日明日に、キラから仕掛けてくることは無いように思われた。昨日も今日もこれまでと全然変わらないし、出張の話をしても一言「寂しい」と言うだけで。体を重ねるのが嫌でも同じベッドで眠ることは止めないのだから、本当に少しくらい、此方の気持ちを汲んで欲しいと思う。平日は疲れに物を言わせて無理やり寝てしまうが、それでもこの処はそれも出来ず、先に布団に潜り込んで、なんとかしてキラが来るより先に寝てしまうことにしている。すぐ近くで寝息を立てられて、自分が安穏と寝られるとは思えなかった。
「そうだな…携帯用の洗顔と髭剃り、くらいか。せっかくだから、ネクタイでも新調しようかな」
「あ、いいねそれ」
買い物リストは出張の話を聞いた時に大体考えてあったから、悩む必要は無かった。弾みでネクタイを挙げてみたら、キラは予想外に、食いついて。
僕も買おうかな、などと言い出したと思ったら、次の瞬間には伝票を持って席を立っていた。
「じゃあ行こ、アスラン」
予想外なんて、嘘だ。
アスランは自分も席を立ちながら、思う。キラは、ネクタイを買うのを殊の外好む。
何故かと言うと、互いのネクタイは互いが選ぶと決めているから。ワザワザ口に出したことの無い、暗黙のルールに過ぎないけれど。仕事柄二人ともスーツにネクタイで出社するが、ネクタイはしっかり自分のものしか使わない。相手が選んでくれたものだから、他の物を使う気がしないのだ。例えそれが、自分が選んだものであったとしても。



 *―*



土曜日のショッピングモールは混み合っていて、カジュアル着のコーナーなんかはバーゲンも相まってちょっと辟易するほどの人の多さだった。其れに比べればまだ紳士服売り場は人も少なくて、更にネクタイのコーナーはと言えば先客は二、三人くらいしかいない。
ショッピングモールの中には他にもネクタイを売っている店はあるけれど、安さが売りの量販店らしいデザインと生地で。買うのが自分のものじゃないからこそ、ついちゃんとしたお店を選んでしまう。それでも普段使い用だから、そこまで値が張るほどでもない。
そういった互いの思惑を反映すると、いつも二人でネクタイを買う時に訪れるのは、決まってモール内のこの店だった、値段は妥当で、一つのブランドの専門ショップ、というわけでもないから取り扱っている数が多い。二人分買うわけだから、その商品数の多さは魅力的だった。
「まずは、アスランの分だね」
至極楽しそうに、キラは率先してまずコーナーを一周する。久しぶりに来たから季節が変わっていて、扱うのは色も柄も見慣れないものが多い。アスランが今持っているシャツやスーツを思い出しているのだろう。小さく唸りながら、気に入ったものをガラスケースに乗せていく。
そんなキラの様子を、アスランはのんびりと見つめている。

本当に、いつもと変わらない穏やかな週末の姿だ、とアスランは思う。キラの笑顔は屈託が無いし、自分がこの瞬間を幸せだ、と思う事に嘘は無い。ただ、小さな引っかかりがあるだけだ。
キラの性欲が薄いことくらい、百も承知のことだ。今更、嘆くことではない。あんなことを言い出したキラの意図を聞き出したわけでは無いけれど、自分が足りないと思っていた体を重ねる回数を、キラは多いと思っていたのだろう。そうでなければ、理由が分からない。もっと根本的にああいう事が嫌いならば、十年も我慢しないでもっと早く言って来るだろうと思う。だとすればあと、考えられるのは。
これはこれまで考えたことも無かったけれど、もしかしたら。
自分は、下手なのだろうか。
嬉しそうに、アスランの胸元にああでもないこうでもないと様々なネクタイを宛がって来るキラを見下ろしながら、アスランの思考は進む。
すごく甘い声を上げてくれるから、考えたことも無かったけれど。キラは一般的には感じやすい部類だろうと思うし、最中にきもちいい、と漏らしたりもするから、それはつまり、満足しているのだろうと解釈してきたけれど。そうでは、ないのだろうか。
もっと気持ち良くすることができれば、キラは回数を減らしたいなどとは思わないかもしれない。もっと自分が上手くなれば、キラもアスランみたいに、週末の度にベッドに今すぐにでも傾れ込みたいと、そう思うようになるかもしれない。

「これがいいかな。もう冬だし、色も今までのと被らないし。どう?」
一本のネクタイをアスランの眼前に掲げて、得意そうに笑う。アスランはキラのセンスを全面的に信頼しているから、これまで否やを唱えたことはない。選ばれた一本はダークレッドに様々な太さのストライプが入っていて、またそのストライプも太さに合わせて微妙に色合いが変えられていた。その色合いも決して基調色を犯すほどの派手さは無く、アスランも一目で気に入って反射的に大きく頷いた。
「じゃあ決まり! ねぇアスラン、僕のも選んで?」
嬉しそうにその特別な一本を大事そうにガラスケースに乗せると、選ばれなかった他の幾つかを元有った場所に戻しつつ、キラは言った。アスランも当然そのつもりだったので、そうだな、と言いつつ改めてネクタイのコーナーを見渡す。

キラが既に持っているネクタイを思い出しながら、ゆっくりと歩く。せっかく選んでも気に入らなければ却下されたりもするので、真剣に選ばなければならない。ともすれば、この瞬間の集中力は仕事をしている時よりも高いのではないかと思うほどだ。
キラに分からないように小さく頭を振って、思考を切り替える。
結局は、キラから誘ってくれないと何も始まらない。これまでも精一杯してきたつもりだけれど、足らないと言うのならより心を込めるまでだ。それでもっと気持ち良くなってくれるかもしれないのなら、そこに費やす努力とか精神力とかというものを、けちるつもりは更々無かった。

それでも、結局言葉にしてしまえば、下手に出るのと同じ事。たった今何が出来るかと言えば、待つ以外には何も無かった。

それでもそろそろ、デート中にこんなことを考えてしまうくらいには限界で。
今日明日までは我慢する。それで、丁度一ヶ月。あの日から、何事も無い週末が四度訪れたという事になる。
キラから言い出したことに、一度頷いてしまった以上。キラから誘って来るのを待つつもりでいたことは確かだ。最初の頃は余裕にも、どういう風に誘ってくるのかと楽しみにしていたりもした。
けれど、もう限界。これ以上は無理だ。どんなに身勝手でも、キラにその気は無いのだとしても、自分がどうしてもキラを抱きたい。

出張から、帰ってきたら。

そうしたらケリを付けよう、絶対に。









next


08.12.16 up