怠惰と惰性と性欲と
2.シャワーが、全ての音を消してくれる。
| その日。キラとアスランは二人でキッチンに立って、ちょっとだけ凝った料理を作った。その後手分けして部屋中を片付けて、それでもなかなか夜にはならなかったから、結局お菓子を引っ張り出して、少しだけお酒も飲むことにした。 キラが宣言したことをアスランは律義に守ってくれたから、その日はそれからキスひとつしなかった。おやすみ、と笑い合って、一つのベッドで寄り添って眠る。 平和で暖かくて、幸せだなあと噛み締めながらキラはぐっすりと眠った。 その翌日からの一週間。キラとアスランは何時も通りに仕事をした。二人は同じ会社の経営幹部だから、自然と家の外で顔を合わせることも多い。多いどころか、二人がこなす会議の八割以上は同じテーブルを囲んでいる。 けれど役職も違うし担当も違う。部下だってそれぞれ抱える身だから、会社内で会話をすることは殆どない。ランチの時間を合わせられるほど互いが暇で無いことを知っているから、そんなこと持ちかけたこともなかった。 会議になれば頭を突き合わせるし、そうでなければたまに擦れ違う。その程度だ。 そうして夜遅くまで忙しさに忙殺されながら、くたくたに疲れて家に帰る。 帰る時間は残業もあってまちまちだから、早く帰った方が軽い夕食を作っておくのは暗黙のルールで。たまに外せない飲み会や接待なんかが入る時は、事前にメールをしておく。そうすればもう片方は、たまになら、と近所のお弁当屋さんで夕食を見繕ってきたり、キラなんかは平気でお菓子だけで済まそうとする。 つまりはいつもと変わりのない、月曜から金曜までが流れて。 また、週末がやってきた。 金曜日の夜。二人は本当に珍しく、八時には揃って退社することができた。会社の玄関で偶然落ち合って、照れるようにキラがはにかむ。 「…せっかくだから、外食でもする?」 「そうだな」 アスランも嬉しそうに頷いて、ネクタイを少しばかり緩めた。その仕草が、見慣れているはずなのにやけに視線が吸い寄せられて、キラは俯く口実に自分のネクタイも僅かに緩めた。 「何処行こうか」 誤魔化すように、顔を上げた瞬間に口を開く。 「最近和食ばかりだからな…イタリアンか、洋食か」 するとアスランは予想通り、投げかけた問いに真剣に考えてくれて。 「あ、僕オムライス食べたい」 よかった、と思った反面、アスランの出した提案にキラは咄嗟に答えを出した。 なんだか今、とってもオムライスな気分だ。 金曜日で仕事が終わって、お腹がすごく空いているからかもしれない。 「なら、駅前の地下街だな」 其処には確かに、オムライスの専門店がある。キラに異存があるはずもないから、きまり、と笑顔で頷く。 「行こう、」と差し出された掌に、そっと自分の手を乗せる。 繋いでしまえばすぐに慣れるのに、最初にアスランの手にそっと触れる瞬間だけは、どうしても緊張してしまう。おそらくはまだ、周りの目を気にしているからだろうけれど。 アスランが全く意に介さない素振りで当然のように歩くから、だんだんとキラも安心してくる。 けれどやっぱり、店に一歩入ろうとするその寸前で、キラはアスランの手を離してしまう。 緊張しているのか恥ずかしいのか、自分でも分からない。けれど、どうしても居た堪れなくなってしまう。その瞬間にアスランが、いつも少しだけ寂しそうな横顔をすることを知っている。それでも、キラはアスランの手を繋ぎ続けることができない。 何も外でドキドキしながら手を繋がなくても、家に帰れば何も気にしないでいくらでも触れるのに。 そう、キラは思ってしまう。 けれどアスランに悪いことをしたな、という思いは消えなくて。やたら元気にメニューを読み上げたり、大袈裟に悩んで見せたりする。そうすればアスランは、苦笑してキラを優しく見つめて、「まったくキラはいつまでも子供だな」と、お決まりのセリフを落としてくれる。 オムライスを食べ終えて、もう十時になろうかという駅前はそれでも金曜日だからか人でごった返していた。アスランもキラも人混みは苦手だ。息苦しいし、なにより歩きづらい。 週末だからといって遊び歩くつもりもなく、二人はまっすぐに家に帰る。 何気ない会話をして、いつもどおりに笑う。お腹がいっぱいで、そして明日は休みだ。キラは疲れた体で一つ深呼吸をして、帰るなり突然言い出したじゃんけんに、一方的に勝ちを宣言して先にシャワー室に消えて行った。 居間に残されたアスランは、スーツを脱いで軽く畳むと、何か飲もうかと冷蔵庫の扉をあける。 キッチンまで行けばどうしても、シャワーの音がけたたましく耳に届く。外は肌寒かったから、いつもより長く入っているだろう。アスランはミネラルウォーターを取り出して、居間のテレビを何気なく付けた。 ニュース番組にチャンネルを合わせて、見るとはなしに読み上げられる記事を聞き流す。 ふと、意識がシャワーの音に吸い寄せられる。 「次は、僕がきみを誘う」 先週のキラの言葉が、頭の中に思い出される。 要するに、アスランからキラに迫ったり、押し倒したり、抱きついたりするなと言うことなのだろうか。些細なスキンシップまで咎められたわけではないのは理解しているが、アスランにとって、日常的な触れ合ったり軽くキスをしたりするキラへの行動と、その気になってしまってどうしようもなくなってしまうような熱いキスや抱擁。その境界線はあまりに不確かだった。 いつだって、可能ならば毎晩だってキラを抱きたいと思う。 けれど仕事もあるし体力や時間の事があるから、それは無理だと最初から分かっている。だからこそ、アスランにとっては週末に体を重ねることは当然のことで、一週間分の想いが詰まっている。 キラは、違うのだろうか。 ペットボトルを握りしめたまま、アスランは考え込む。平日の間は極力考えないようにしていたし、翌日が早いのだからあまり触れ合わずに寝てしまう。つまりは、考える暇も無かった。 けれど今再び週末を迎えて、キラの真意が分からない。 要するに、キラはもっと回数を減らしたいということなのだろうか。 情事の数が愛情に比例するわけでもないし、欲情の度合いが恋情の重さに比例するわけでもない。それは充分に分かっているのだけれど、それでもアスランはがくりと肩を落とした。 自分と同じようには、キラは自分を欲していない。 つまりはそういうことのような気がして、酷く気分が滅入る。 けれど一度承諾してしまったものを、覆すわけにはいかない。 キラとの約束を破りたくはないし、撤回を申し出れば間違いなく、卑猥な欲が膨れ上がって、それを処理したいだけだと思われるだろう。違う。アスランの想いは、体の正直な欲望だけに終始しているのではない。毎日キラを見て、一緒に仕事をして。そうして溜まった恋情を、情事という形で吐き出したいだけなのだ。 「まいったな…」 もう、キラがその気になってくれるのを待つしかない。恋人として付き合って十年くらいになるけれど、キラから誘って来てくれたことなど数えるほどもない。それほどキラの中でその種の欲望は淡泊で、アスランはいつも自分から、キラが欲しいのだと気持ちを表さなければならなかった。 けれどその手段が失われた今、果たしてキラはどれくらい経てば、アスランに縋ってくれるのだろうか。 もう二桁の付き合いになろうかという大好きな恋人の、まだ知らない数少ないひとつ。 とりあえず我慢が強いられたしんどさと、けれどその瞬間が来た時のキラの表情を想像して、アスランは一瞬、顔に複雑な表情を浮かべる。 「…ラン、アスラン」 そうしたら名前を呼ばれて、アスランは驚いて振り返った。そこには、裸にバスタオルを巻きつけただけのキラが、無防備な顔で此方を見ている。 「大丈夫?ぼんやりしてたけど」 「ああ。たぶん、疲れているだけだ」 そっか、と。キラは頷いてもう一枚の小さなタオルで髪を拭く。全身を火照らせて石鹸の良い匂いを漂わせて、アスランはずくりと、自身の中央の質量が増したのを感じた。 「僕もくたくた。アスラン、お風呂入っちゃいなよ」 「ああ」 言葉少なに、居間を後にする。逃げるように脱衣室に飛び込んで、詰めていた息をゆっくりと吐き出した。 おそらく、今日は何もないだろう。たぶん、明日も明後日も。 そうしてまた一週間が始まってしまうのかと思ったら、その想像はそれだけでアスランの全身から力を奪い去ってしまった。シャワー室に置いてあるプラスチックの椅子に座り込んで、勢いよくシャワーを出す。 其処に、自分の指を這わせたのは本当に無意識だった。 シャワーが、全ての音を消してくれる。 結局その週末。キラはまるで約束を忘れてしまったかのように何事も無く笑い、そして過ぎた。 |
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08.11.30 up